副鼻腔炎(蓄膿症) コミュニケーションがうまくいかないメカニズム1

私自身、言語能力の発達が遅れていた部分について、すでに書いていますが、これがその後にコミュニケーション問題に発展することになります。ただ、言語能力の発達が遅れた結果としてコミュニケーション問題が起きたということにすると、言語能力を上げれば、なんとかなるんじゃないかと思ってしまう人もいると思います。ですが、そういったことでは根本的な解決はできないと思っています。

その視点だけでは慢性的に副鼻腔炎を患っている子供に起こるコミュニケーション問題の状況を正確に捉えているとは言えないと思っているのです。つまり、もっと根源的なメカニズムを捉えてはいないと思っています。物心ついたときから慢性的な副鼻腔炎(蓄膿症)を患う子供のコミュニケーション問題は子供であるがゆえに、目立つことなく気付かれることなく、大人になってしまいやすいと思います。

病気を持っていない大人の視点からは、分かりにくいからです。でも見つけられないかといえば、そうではないと思います。見識ある大人がいれば、すぐに察知するでしょうし、サインも出ているはずです。もし小さな頃から慢性副鼻腔炎が重症化している場合は、サインもかなり小さな頃から出ているはずです。

私のケースでいえば、保育園のころに音に合わせて動くことができない。一人だけズレているといったことです。たとえば、カスタネットを叩くタイミングが、どうしても一人だけズレているとか、そういったことに表れることがあるはずです。どれだけ指導してもズレてしまうのです。

この件、私がハッキリと記憶しているわけではないのですが、私の親と保育園の先生とがやりとりする連絡帳に記載されていました。それを後々、読むことになり、自分としてはその理由をなんとなく分かっていました。このメカニズムについて身体で感じていたのです。

小学校に上がってから、はじめて立って教科書を読まされた日の私の経験について、以下で書いていますが、この時に起こったことと同様のメカニズムで起きていると思います。
関連記事:子供の慢性副鼻腔炎(蓄膿症)と言葉の発達について。小学校でのつまずき。

インプット情報に対する適切な反応が出来ない。その背景にはインプット情報が同時に複数存在していて、その中の一つの情報に反応しようとしているために起きていると思います。

慢性的に感じている鼻の不快感や息苦しさといった情報が常に強い状態でインプットされ続けていること、その上、小学生程度にもなってくると恥ずかしさも増してきて、周囲の様子もインプット情報になってきます。

単純に一つの情報を捉えて反応する状況にないということです。他に捉えている情報が強くて多くなっていくのです。その上で、鼻の慢性的な不快感や息苦しさは情報を受け取るための機能自体を弱体化させます。意識散漫、感情鈍麻、集中力の欠如が顕著になってくるのです。

そこに別のインプット情報を入れているような形になっています。つまり、感覚器官自体の機能が正常に働いていないところに、インプット情報を複数突っ込んでいるわけです。それで、上手に反応できない、よってコミュニケーション問題が生じる。そういうことです。副鼻腔炎(蓄膿症)の程度が重症化する程、これがひどい状態になっていきますし、年齢が上がって社会性が増すほど、本人にとってもより大きな問題になり、大きなストレスになっていきます。

症状の程度によっては、適切な状況判断が出来ないことで物理的な危険も増していくことになると思います。ですから、発達の過程で副鼻腔炎(蓄膿症)が重症化した子供を、他の子供と同様に教育していくという環境自体がとても大きなストレスになり得るはずです。その時にはその様子がなくても、それが蓄積していくことはとても大きなストレスになると思います。

ですが、現状では社会としても、それは仕方のないことにせざるをえない部分をかかえていると思います。面倒なので、あまり触れたくない部分でもあるのかもしれません。既に別の記事で書いていますが、たとえば神奈川県保険医協会さんのサイトで書かれているようなことがあります。正しい指導ではありますが、その文面からは面倒臭さとか不快感の提示を感じ取る人もいるはずです。

http://www.iiiryou.com/filebox/cat215/post_170.html
「副鼻腔炎(ふくびくうえん)」は膿っぽい鼻がでているときは、プールの水を汚すことになりますから、必ず泳ぐ前に鼻の治療を受けてください。また泳ぐ前は鼻をよくかんでください。」

大人が「蓄膿症」の子供に向けてこのようなことを発信して同じ教育をさせているのが現状です。現状、そうせざるを得ないので、神奈川県保険医協会さんの言葉が悪いわけでは決してないです。

ただ、症状によっては教育の自由度をある程度、設けておくべきと思いますし、画一的な教育ではない寛容さ、本人の意志ももっと尊重して皆とは違った教育環境がもっと認められるべきと思います。なぜなら、個人のコミュニケーション問題を社会がより重くしてしまうことが想定されるからです。そこまでして画一性を維持すべきではないはずです。もっと言えば、教育が特定の個人にとっては社会性の維持という点においてマイナスに作用する可能性があるということです。

分かりやすい問題、分かりやすい障害ではないことが逆に、慢性的で重症化した副鼻腔炎を患って生きる子供たちの状況を困難なものにしていると思います。良かれと思ってしている教育が、マイナスに作用している可能性について、どれだけ謙虚な姿勢で考えることが出来るのかが問われているように思います。