慢性副鼻腔炎(蓄膿症)と子供の症状の把握について
人は自分が不快なことなら不快だという反応をしますね。当たり前です。動物でも同様に不快なことは避けようとしますね。でも、生まれて物心ついた時にその不快な状態が当たり前の状態であったらどうでしょうか。その子にとっては、その動物にとっては、拒否反応を示すものではなくなるはずです。それが当たり前の自分だからです。
こういった背景があって、慢性副鼻腔炎(蓄膿症)に物心ついた時から陥っている子供は、自分の認知状態が既に制限されていることについて、他者との比較で理解するようになっていきます。主に他者からの刺激によって理解するようになっていきます。指摘されたり、バカにされたり、汚いと言われたり、暗に避けられたり嫌がられたりすることによってです。
他者から見て不快な状態であれば、その他者の反応は拒否反応として当たり前の反応です。そういったことを繰り返して、社会性が身に付いていく部分はあると思いますが、指摘されたり、バカにされたり、汚いと言われたり、暗に避けられたり嫌がられたりすることについて、その子にとっては当たり前のようにして生まれて育って与えられた身体について言われていることになります。
とても傷つくというよりは、どう捉えたらいいのか分からないし、どう反応したらいいのか分からない。とりあえず、自分は恥ずべき存在なんだということは強く感じる。でも、よく分からない。それ以上、何も考えられない。
私自身の子供時代をふり返って、そういう感じだったと今はそう思っています。その当時の私はその感情や印象をうまく言葉にすら出来ずに漫然とした状態でした。
今、思い返してみると、なぜ泣いて母に状況を言わなかったのだろうかと思います。おそらく悲しいというよりも、どう捉えたらいいのか分からないし、どう反応したらいいのか分からない。とりあえず、自分は恥ずべき存在なんだということを強く感じる。でも言葉に出来ない。
そして、繰り返し無い事として生活していることをまた言われて、そしてまたそれを無い事のようにして自分から逃げて、ある意味自分に嘘をつくようにして生活していたのだと思います。
授業中の静かな教室で隣の女の子に「鼻かんだらいいじゃん!」と言われたこともよく覚えています。確かにそうなんです。不快を与えてしまっていたんだと思います。ですが、その時には鼻をかむのも恥ずかしいし、また無い事だったはずのことを指摘されたという感じだったのかもしれません。
鼻をかむ。当たり前のことですが、そういったことに極度の恥ずかしさを感じていたことも覚えています。ただ、静かな教室であれば、大人であっても恥ずかしく感じてトイレなどに行く人も多いと思います。そういった行動、病気の無い人のように客観的に捉えることが出来ていれば、おそらく当たり前のようにトイレに行って鼻をかむ行為を出来ていたんだと思います。
小さな頃から親にも「鼻をかみなさい」と言われていたにもかかわらず、きちんとそういった当たり前の行動が出来なかった。その背景には、普通の状態とか当たり前の状態が鼻が出ていない状態ではなく、普通の状態とか当たり前の状態が既に鼻が詰まっている状態、鼻が出ている状態だったからだと思います。それも物心ついた頃からです。
普通じゃない状態だな!と思って鼻をかむ。一方で、普通だけど鼻をかむ。ここに大きな差があるように感じます。この点ですが、分かりやすくオーバーに書いているところがありますが、(実際には本人もいつもよりも息苦しさを感じていることもあったと思いますが、)実際にふり返ると、なぜだったのかという問いに対して出てくる答えはこういったところと、その上で、慢性的な感情鈍麻、思考散漫に陥っていることがあるのです。
こういったことまでも含めて考えると、重症で慢性の副鼻腔炎の子供はもしかしたら別の教育環境がある方が良いのかもしれないと思うところもあります。でも、これはまだ私自身も明確に答えを出せていることではないので、分からないです。
ただし、社会に出ていく過程、社会に出ていった後も本人が必ずぶち当たる壁であることは間違いないです。みんなが普通だと思っている環境でずっと苦しいなら、そういった環境とは違う環境を選ぶことになるということです。みんなと違っていいんだという生き方、そういう人生を選ぶことが想定されるということです。
そんなに重大なことなのかな?と感じる人も多いと思いますが、慢性副鼻腔炎の状態が重症であるほど、年齢が上がるほどに、周囲との「違い」を本人も明確に感じるようになるはずです。
それは勉強がうまく出来ない経験、コミュニケーションがうまく取れない、記憶力が著しく低下していくなどのことによって社会性が失われる中で明らかになっていくと思います。仮にそれが想定できるなら、同じ環境で一緒に教育を受けていることの意味は本人に辛い思いをさせながら、そういった存在であることを知らせにいっているような行為として捉えることすら出来るように思うところがあるのです。
そのことを、医療や教育関係者の方々や学校の先生方、周囲の大人も含めて、もう少し考えた方が良いケースがあるのかもしれないと思います。重い鼻づまりを意識しながら、苦しい思いをしながら勉強を続けることは修行僧よりも厳しいことがあり得ると思います。
滝打ちでもするのであれば、滝打ち前は比較的楽だったということでしょう。そういうタイミングすらないということです。症状によって、ずっとではなかったとしても、慢性副鼻腔炎の子供はかなりの期間、そういった状況に置かれている場合があるということです。そんな世界を生きている子供に対して、サッパリとした心意気で簡単に評価を下してしまうことを仕方のないこととして捉えなければならない現状がある一方で、このままでいいのだろうかという思いはやはり明確に残っています。
症状がリアルに想像できないときには、風邪やインフルエンザで鼻水が出て鼻が腫れ、鼻が完全詰まったままの状態、頭も重い状態、ボーっとした状態で一年中、教室で勉強することを想像してください。まだ知らないことが多く、その状況を当たり前のこととして捉えている子供でないと、耐えることなど出来ないのではないでしょうか。
今回の取り上げた内容を踏まえて、具体的に子供の学校生活で起こり得ることについて以下の記事で取り上げたいと思います。
副鼻腔炎(蓄膿症)子供、学校のプール問題