分かること、分からないこと。そして不利な現実

身体に障害がある人と接したことはあるでしょうか。障害のある人でも色々な人がいて、明確な形で分かる障害を持つ人もいればそうではない人もいます。分かりにくい障害は逆に生きにくくなりやすいです。精神に障害を持つような人も同様で、分かりにくさのためにあまり理解されない状況があると思います。身体に障害ある人でも、たとえば耳が聞こえないといった障害を持つ人について見ただけで分からないと思います。手話を使っている光景を目撃すれば別ですけどね。

そういう分かりにくさが増すほど、社会で生きる際には不利になります。明確な障害スコープにある病気から神経症的なスコープに近づくほど、病気を持っていない人にとってはリアルに状況が分からないことになります。重症化した慢性副鼻腔炎(蓄膿症)については、重症化したといっても、その慢性的な苦しさは、中々伝わらないものです。どこか風邪をこじらせた感じくらいかなと思われてしまうところがあります。確かに、そのような部分があるのですが、風邪をこじらせて鼻が詰まった状態でどれだけ長い年月を過ごさなければいけないかという点から先のことについては、全く何も考えられないものです。それがどれほど大きな影響を与えるかについても、リアルに想像できない。分からないのです。

分かりにくい。こういう状態は本当に不利になります。全く違う話題で、同じようなことがあると思います。たとえば、生活保護家庭と最低賃金レベルで生活する家庭。生活保護ということで分かりやすい何らかの支給要件に該当するわけですが、最低賃金程度で生活をしている人は分かりにくい状況に囲まれていることが多い。朝から夜まで働いて、夜からまた深夜まで働くような人もいます。かなり不利な状況に追い込まれていることが多いです。分かりにくさは絶対に不利になります。つまり、慢性副鼻腔炎(蓄膿症)で長年苦しみ、そのまま大人になり、色々な他の症状にまで発展してしまった人も不利になりやすいということです。

そういった状況を見据えると、当たり前の状況を当たり前に過ごさない方がいいです。どういうことかというと、周囲が当たり前に過ごしている日常の延長線上に自分にとっては、かなり不利な大人の世界が待っているということです。なぜそうなっているのかというと、そこには科学的、分析的思考方法があると思います。それは結局、分かるとか分からないといった視点での分類分けが多くなるということです。人間は分からないことに不快を感じます。だから、その不快感に対処するとしても「分かる」「分からない」が大切なポイントになります。「分からない」ことは存在しないことと同義のように扱われることが多くなります。そうではなかったとしても共感が得られずに、排他的な空気を感じることも多くなるかもしれません。

不利な状況下で、どうすればいいのか

分かりにくい病気を持つ人は、不利な状況にならざるをえないわけですが、
結論から言えば、これは仕方ないです。そこを攻めていくよりは、その状況からどのように脱出していくことが出来るかを考えた方が良いです。そう考えて見えてくることの一つが学校教育の現実です。多くの学校教育は、多くのサラリーマンを養成することにつながっている現実があります。

つまり、働いて奉仕する人になります。賃金労働者になるということです。分かりにくい病気を持つ人は、この賃金労働者として不利になりやすいです。だから、その道が合わない。そもそも、不利な状況で戦う必要はないはずです。何の疑問も持たずに、そのまま皆と同じように進めば、不利な状況がずっと続くことになります。そこから脱出することだけを考えた方がいいのか、そうではないのかはもちろん、それぞれの状況によって全く違うはずです。ただ、本当に不利で、ずっと不利が見込まれているなら、脱出を考えておくべきと思います。

不利にならざるを得ない背景について

実際に身体的な問題や精神的な問題があるわけなので、その問題の存在自体を嘆いても仕方がないですよね。ただ、自分がその病気を捉えて、より良い道を模索し始めたときにその邪魔になることがあると思います。その背景には「考え方」があると思います。科学的な思考法です。西洋医学は特に分析的な思考方法が非常に強く残っているように感じます。身体を分割して分析して解釈していくような考え方が強くあったように思います。科学全般ですが、形式で攻めていく思考方法と、それとは違って受け取った自分の感情などを出発点に理屈を作っていくような思考法があります。このどちらでも、おそらく不利な状況の改善は難しいと思います。

リアルに人の状況を受け取って感じ取って想像して、そこから思考するといったことまではされていると思いますが、その受け取ったリアルな感情を確認した後、この感情だけでなく、別で保持している科学全般の思考法からも飛び出した客観性が求められると思います。「分かりにくさ」はその水準に到達していないと、おそらく目をそらすか、分類思考によって存在しないことのように位置付けるか、このどちらかになるはずです。

今の水準からは、もう一段飛び出した部分を持たないといけない。だから、非常に難しい。これは期待しない方が良いです。仮にそれをして問題を認識したとしても、そこにアプローチしていくための知的土台が今は全くないこともあります。そんな状況なので、不利な状況が少し改善されることがあるかもしれませんが、基本的に不利な状況が続くことは当たり前だと思っておかないといけないです。