副鼻腔炎(蓄膿症) タバコは出来るだけ止めた方いい理由

これは自分の身体が経験してきたことなので、他の人にも当てはまることなのかは分かりませんが、タバコは最悪です。特に手術後にこれを強く感じるようになりました。既にタバコを止められない状態になっていた私は手術後も当たり前のようにタバコを吸っていました。そんなある日のこと、タバコを吸う度に喉から顔全体が痛くなって、顔や喉周辺が腫れたのです。

朝起きると目ヤニが沢山出ていた記憶があります。そういう日々がかなり続きました。この時期も本当にギリギリの社会生活を送っていたと思います。それなのにタバコが止められないのです。そういったストレスがさらにタバコを止められない状態にしてしまっているようでした。逃げるようにしてタバコを吸っていましたね。で、また顔面や喉まわり周辺が痛くなる。顔がパンパンに腫れてしまっていました。そんなんでよく働いていたと思います。仕事を辞めて、失業保険をもらえば良かったのではとも思うかもしれませんが、その間に食いつなぐお金すら、その時は持っておらず働き続けましたね。

ただの一日もタバコを止めることが出来なかったのですが、「ニコレット」で一日だけ止めることが出来ました。その成功体験がなかったら本当にヤバかったと思います。その後、たぶん100回以上は禁煙に失敗しました。毎日が戦いのような感じでしたね。本当に苦しかったですが、それからなんとかタバコを止めることが出来ました。で、今考えても、このタバコは本当にヤバかった、最悪だったと思いますが、タバコを吸い始めたのは中学生の頃。

そして、物心ついた頃から副鼻腔炎(蓄膿症)で重症でしたので、簡単にタバコが最悪!と断定できない部分もあるのです。それは「ストレス」が強かったからです。ストレスから逃げるようにしてタバコにハマってしまったためです。だから、タバコのせいで本当に今でも残るような顔の違和感が生じてしまいましたが、その一方でタバコを吸っていなかったら、あの当時に耐えられただろうか?という思いもあるのです。綱渡りのようにして何とか生きてきた部分があるように自分では感じていて、悪い習慣を無くせば何かがうまくいっただろうなという思いはあるのですが、その一方で、それをしていなかったら何か別の問題が出ていただろうなという思いもあるのです。

だから、今の自分でも分からないところがあります。そもそも、もし副鼻腔炎(蓄膿症)のシンドイ日々を過ごしていなかったら、すぐに働かなくなっていたようにも思います。それくらいに痛みのあるままに働いていましたね。ただ、現時点で副鼻腔炎(蓄膿症)で苦しんでいる人は、出来るだけタバコは遠ざけて欲しい!もちろん、色々なバランスの中にあると思うので既に手にしてしまっている人に対してはそんなに強く言えない部分がありますが、それでも後々のことを考えてタバコについては本当に注意しておいて欲しいと思います。

タバコをやっていなければ、今でも続くような顔の違和感、ハリのようなものは無かっただろうと思うからです。でも、これは一つの思いに過ぎないことでもあります。自分でもタバコをやっていなかった自分は想像できないのです。このように、副鼻腔炎(蓄膿症)を放置し続けると、色々な悪習慣がさらなる悪習慣を引き寄せていくように思います。

ですので、なるべく早めの対処が大事です。まず身体が最優先だと思います。大人になって経済的に独立してしまうと、かなりヒドイ状態でも身体を後回しにしないと社会生活を続けることが出来ない状態に陥るかもしれません。ある程度、恵まれた経済主体に所属しているような人は大丈夫だと思いますが、世の中はそんなところばかりではないです。そこでドロップアウトしたら、もう復帰がかなり困難な状況下にある人はかなりの数いるはずです。だから、無理をせざるを得ない状況になることが多い。で、「死」がすぐ横にある状態が当たり前の状態になることもあると思います。

有名大学出身で有名企業の人がパワハラが原因で自殺したというニュースが過去にありましたが、パワハラではなくても「死」をすぐ横に感じながら生活している人は、かなりの数いると思います。そして無理がさらに症状を悪化させ、慢性的な違和感などにつながってしまうことがあると思います。だからこそ、子供のときの早めの対処が大切です。タバコなんか自己責任だろ!という人もいると思いますが、確かにそうだ思います。

ですが、私のように物心ついた頃から患う病気によるストレスから逃れるようとして得た習慣であればその行為自体、本人はあまり悪いと思っていないはずです。私も社会的には良くないことだと思っていましたが、悪いことをしている感覚は無かったですね。ただ、褒められたことではない。自己責任と言われれば否定しない。そういう感じです。

ただ、自己責任論ばかりの人は、病気になったり、何か大きな失敗をしたり、何か緊張してダサい姿を見せたり、何らかの不幸な事件や事故に巻き込まれたりした場合にも同じようにして自己責任だろ!と言われることになると思います。なぜなら、結局は自分の行動が自分の結果をまねいていることは否定できないからです。事件や事故ですら、そんなところに行く必要なかったのにとか、そんなお金の使い方ばかりしていたからその中で起こったとか、注意力が足りなかったとか、普段の生活が悪いから逃げるだけの脚力がなかったとか、人を批判するような事ばかり言っているから事件になったとか、色々な形で自己責任論を追及出来てしまうためです。

自分のことは環境のせいにして、自己責任ではないと主張するときに立ち止まって「環境」のせいで避けられない病気になり、ストレスを得ているような人の気持ちを察することが出来るようになって頂きたいと思います。それが出来なければ、事件や事故が起きるたびにメシウマ的な社会の雰囲気が強くなっていくことと思います。自己責任を追及し、自己責任社会が浸透するほどに社会は人の不幸を喜ぶような社会になっていくように思います。それは社会の衰退を意味すると思いますが、そういうメシウマ的な要素を人間は誰でも持っているそうです。

そういう部分を中心にした社会を作るか、助け合いを大切にする社会を作るか、どちらが良いかという問題でもあると思います。自己責任を中心にして人を評価すれば、必ず同じ物差しで評価されることになることを忘れてはいけません。神様のような能力でもない限り、そういう自己責任に基づく心のない言葉で寂しい思い、辛い思い、悲しい思いをどこかですることになるのです。一流大学を出ても中卒でも変わらない部分があるということです。親子間でも自己責任を追及した考え方になれば、親子間での助け合いも終わります。ですので、親子間でも同様のことが起きてくることが想定できます。

一度、自己責任は押し付けたような態度を示してしまったら、それに対する反作用はずっと続きます。なぜなら、自己責任論の根っこにある気持ちはそういうものだからです。その根っこにある気持ちとは、人間そのものを見下し、バカにし、見放したような気持ちということです。だから、謝っても遅いってことです。もし謝るなら全財産をつぎ込んで謝るくらいじゃないと気持ちは伝わらないはずです。そういう致命的なことが自己責任論の根本にあると私は思いますね。人間関係は終わるし、社会でのつながりも終わる。

だから、自己責任論は極めて悪質犯罪などに対する責任を問う時、つまり社会から切り離すことを覚悟する時に使うべきと思いますね。その中でも中身をよく考えて使うべき言葉だと思います。厳密に考えて、勝手に誕生させられたこの世において、完全な自己責任なんてあり得ないという理屈は、人間である限り誰にでも当てはめることが出来るからです。