子供の副鼻腔炎(蓄膿症)が放置されてしまう背景にあること

子供の体調が悪かったり、子供の発育に異常があったりした場合に、多くの親は異常に気が付いて、どうしたらいいのだろうかと考えて何らかの対処をすると思いますが、こういう視点が欠落した親に育てられた場合、子供はいつも放置されることになります。自分のこと以外は分からない大人が親になるとこのようになります。「保護者」としての機能に問題が生じている親です。この「保護者」としての機能を維持すること、これは特別なことを要求しません。動物的な部分だと思います。

これが出来ないということは、つまり「欠陥」があるということです。「欠陥」があるということは、単純に親だけの問題にも出来ない部分があるということ。子供のご両親の育ちそのものにも問題があることが想定されると思います。こういった「欠陥」を意外に多くの人が持っているのかもしれません。ですが、「家」とか「村社会」とかいった枠組みによって支えられている部分があって目立たなかったのかもしれませんね。

でも今は自己責任時代で、個人時代。そうなると、子供の放置状態が問題になってくるかもしれません。放置状態だけでなく、最近取り上げられてきましたが、児童虐待による死亡事件などが多くなってくると思われます。ですので、何らかの枠組みが求められている状況にあるのかもしれません。そんな中、副鼻腔炎の子供は異常と正常の判断が難しく、見過ごされやすくなっているだろうと推測できます。常に見ておかないと「異常」だなと判断することも難しい部分があるのかもしれません。

仮に少し異常だなと思っても、大人のコミュニケーション環境が貧しくなっていることもあり対処されない場合も多くなっていることでしょう。だから、見識のある大人が必要と思いますね。「見識のある大人」これはどんな人だろうと考えたのですが、私の場合には自分のような大人という結論になるんですよね。病気を経験してきた大人、病気視点を含めて人を見る目が発達した大人です。

ですが、私のようなタイプの大人はおそらく社会ではあまり表に出ていないタイプ、出れないタイプの人が多いと思います。それで、今は特に見過ごされやすくなっているのかもしれないと思います。ですが、これを社会のせいにすることもできない、そして親のせいにすることもできない。そうなると、放置された慢性副鼻腔炎(蓄膿症)の子供について、打つ手がないということになります。

それなら、他の方法を考えるべきなのかもしれません。AIなどを使って、欠陥者が出やすいパターンを深層学習。事前に子供がかかえるリスクの大きさを数字で表現することが出来るようになれば、社会的にも役に立ちそうです。昔からあるような書物の中にも欠陥者が多く登場しますが、そういった人たちが育った背景についても考慮に入れることで、欠陥者を見つけやすくなるかもしれません。

実際、私が育った家は形態としては普通に見えてしまうかもしれませんが、かなり特殊な部分があります。自分自身がこのような背景を背負っているので、そういう視点で人を見ることについても発達している部分があります。特に意識してデータ集めをしていたわけではありませんが、常にそういった視点があったのでそういう視点で人を見ることが多かったです。ですが、こういったことを一般化してしまうと差別意識に確実に結びつくと思います。

だから、人の知は入れないAIの使い方を適用すべきと思いますが、このために使うデータ自体の用意が現実的に無理かなという感じです。よって、ここでも手詰まり状態かなと思いきや、AIならば私のようなアプローチではなく全く予想もつかないアプローチでパターン学習して欠陥者のリスクを数値化出来るかもしれません。社会としては、こういった発展を待つしかないのかもしれません。

そんな状況なので、現状ではいつも接しているような周囲の大人たち、学校関係者の方や地域の方々、病院関係者の方々がとても重要な存在になると思います。そこが機能しなければ、家庭で放置された子供は社会でも放置され続けることになるということです。その光景はとても酷い様子のものではなく、当たり前のように放置され、当たり前のように見捨てられていく様子です。もちろん悪気なんて少しもない。前向きに明るく生きる人たちの視点はとても大切ですが、その背後で動物や人間は弱者を当たり前のように切り捨てていく部分があるということです。それが自己最適化した姿勢でもあると思うのです。だから、見えないのです。重症化した慢性副鼻腔炎だけでなく、他の色々な病気、色々な事情を抱えてまともに生活出来ていない子供もいることでしょう。

そうなると、そういう子供については専門家がピックアップして別で生活させる選択肢を用意した方がいいように思うところが私にはあります。おそらく、欠陥を持つ親であれば、そのような事実を認められないことも多いと思います。なぜなら自分は全く苦しくなかったからです。自分が保護すべき子、自分の生んだ子供まで切り捨ててしまっている部分があることを認識出来ないのです。ですので、そういった保護者に対する教育的な配慮も必要になることがあるかもしれませんね。このようなことを考えるだけの「知」の不足は、社会としてはマイナスです。

つまり、自己最適化した動きばかりの人たちは結局は自己最適化出来ていないということに気が付かない。何らかの予期せぬことが自分にふりかかるまで、自分で経験するまで気が付かない。ですので、そういった人たちの上に立つ、インテリジェンスが求められているように思いますが、今、それはどこに期待出来るのでしょうか。

このようなことを考えている人間がいるということだけでも示しておきたいと思いましたね。