副鼻腔炎(蓄膿症) 自分の努力をすべき。それを認めるべき。
努力して結果を出す経験はとても大切だと思います。私自身、人に自慢できるような結果を出したことがありませんが、それでも、普通の人よりもかなり低い状態にある言語能力を自分なりに少しずつ育てて、何とか人並み程度に言葉で考えることが出来るようになったことは、とても大きな財産になったと思っています。努力して良かったと思っているのです。
一方で私の努力が報われないこともありました。それは主に学校の勉強です。本当に頭に入ってこない状態になっていた時期があったと思います。特に高校生のころから、これが酷くなった背景には副鼻腔炎を誤魔化すためにいつも飲んでいた強めの薬の影響が大きかったように思います。そもそも、周囲の努力目標に合わせた努力を当たり前のようにしていたことが一番の問題だったと今はそう思っています。
その当時、私のすべき努力は鼻の病気と向き合うこと、それが一番だったはずなんです。学校の勉強じゃなかった。でも、そんなことを考えることもありませんでした。自分としっかり向き合えてなかったと思います。これは、どこかで必ず問題になってきます。それから、そもそも義務教育が既に終わっているのであれば、学校が一番だという考え方で生きる必要もないかもしれないのです。人それぞれに道があります。
学校が一番だという価値観は人が作ったものです。そこには安定的なサラリーマン社会にしたいというデザイン思想がもちろんあります。ですが、人それぞれに道があるはずです。ハンディキャップを持っているなら、なおさらそのようなことを考えて生きていかなければいけないと思います。自分にとって、どういう選択がベストなのかを考えるときに、みんなと同じだとキツ過ぎるから別の道がいいなという人の思いを潰してはいけないと思います。みんな同じだと考えていると、他人に対する想像力も無くなります。
もし、他の道に進んだ時に、努力しなかったからお前はダメになったんだというような事を言う人がいるとしましょう。おそらく、その言葉はその人にそのまま返ってくることになります。努力は本来、人それぞれ違っていいはず。ただ、学校というルールの中では一定の努力目標にみんなで向かっていこう!ということだと思います。社会に出て会社に入っても同様です。でも、その義務教育後の学校だったり、会社だったりに所属するかしないかは本人の自由です。ルールの外にいる人に、努力が足りないと言われる筋合いはないはずです。
自分の物差しで一番重要なことを一生懸命にしていればいい。そういう努力を続けてればいいはずです。そういう努力だからこそ、人は強くなるように思います。自分の価値観で人を見下して強さをアピールしたところで、それは本当の強さではないように思います。
慢性副鼻腔炎(蓄膿症)で毎日の学校生活を過ごすことは本当に修行僧以上の苦労をする場合もあるのではないかと思います。私自身、副鼻腔炎(蓄膿症)となり、手術をして、その後も色々な身体の不調を抱えながら生きていく過程で、とても強くなったと思っています。たとえば、「死」自体がコワい!という感覚はないですし、大きな病でもう死ぬかもしれない状況になったとしても、明日死ぬことが分かったとしても、特に大きく感情が動くことはないです。お医者さんに手術してもらってダメなら死か、手術も無理なら仕方ないやという感覚しかないです。面倒ならそもそも手術や入院もしないですね。
そもそも若い時から薬も沢山使ったし、それなのにタバコも若いときから沢山吸っていたし、早く死んでしまうのかもなって・・・という気持ちはどこかであります。だから、結婚してすぐに考えたことが保険についてでしたね。そういう感じで生きてきたので、健康だった人が大きな病になって泣きながらセンチメンタルになっていたり、大きな病気になったということで泣きながら親から電話をもらっても、心の底から甘さしか感じない自分がいました。
いつ死んでもおかしくないというのは私にとっては当たり前の現実だったからです。だから、両親であってもそれくらいに生きている世界がもう違ったんだという印象を持ったことがあります。そこで思い出した言葉が「努力」です。努力したから結果が出た。それはいい。努力しなかったから、あいつはダメだったと自分の物差しで人を判断してしまったことはないかな?と。仮にその物差し感覚を借りるなら、努力しなかったから、君は自分の生命ごときでそんなに心が動いているんだろうと。一瞬そういう冷たい考えすら出てきてしまったのです。本当に冷たいことだと思います。
ですが、この視点は大切で「努力」の色々な形を認めることが社会的なつながりを維持する上でも大切だということです。もし、一つの努力しか評価されなくなれば、そこで仮に勝利を得たとしても、別の点で敗北した時に努力しなかったからだよね!としか思われなくなってしまいやすい。これは当事者として私も実感するところです。重症化した慢性副鼻腔炎を患っている子供を放置してしまうと、残念なことに親子でこういった関係性が生じやすくなるはずです。
結局、人間は自分のことをちゃんと努力していないと、ダメなんだなって大人になって本当にそう思いますが、一方で親というのは子に対して健康な身体を授けなければいけない。授けられないなら、フォローしなきゃいけないと思います。それをしないなら、当たり前ですが、子供がなんとか生きて力を付けたとしても親自身が今度はフォローされなくなる状況になりやすいということです。関係性がそういうものだからです。自己責任社会型の発想が親子関係にも生じることになるのです。
そういった観点で考えても、社会は色々な努力をする人を認め合う器であることが大切だと思います。社会を一つの価値観で覆って、一つの評価基準で判断してしまうような傾向が強くなってきたから、学歴志向、東京一極集中が止まらない状況になっていると思います。それは、子供たちが触れる価値観も一つになりやすいということだと思います。それが間接的に、今の重症化した副鼻腔炎の子供を苦しめてることにつながっているのであれば、それは、周囲の大人が少し考えた方がいいと経験者視点でそう思います。
社会的に出遅れてしまう懸念があったとしても、保護者の方までその社会的な存在と同じような視点だけにならないで欲しいということです。もっと大らかで、ゆったりとした視点も持っておいて欲しいと思います。それが学歴以前に生命を見つめる視点だと思うのです。副鼻腔炎(蓄膿症)がきっかけで、いつかのタイミングで、もしかしたら人とは違う道を歩むことになるかもしれない子供にとって大きな支えになると思うのです。
そして、そういった社会の力に負けない親子関係があれば、子供はきっと安心する部分が大きくなるはずですし、どんな状況においても強い意志を持って生きていくことが出来るように思います。そうすれば道は拓けると感じます。