副鼻腔炎(蓄膿症) 臭いが分からなくなると危険が多い
副鼻腔炎の手術後、鼻の通りが良くなって生活が一気に向上しました。これは私にとって本当に大きな変化でした。片側の鼻はまだ不調が実際にはあるのですが、それでも手術前に比べると大きな違いがあります。ですが、「臭い」を感じ取る能力は、鼻の通りの良さに比例して良くなったわけではないです。
私の場合、化学的な臭いはすぐに感じるのですが、生臭い感じの臭いとか腐敗臭みたない類の臭い、排水管から漏れるような臭いには鈍感なようです。全く臭いを感じないということではないのですが、妻と比べると鈍感なことを感じます。ですから、一人だったら気が付かなかったなと思うことがたまにあります。特に引っ越し先のマンションを決める時には、本当に危なかったと思います。妻から言わせると、かなり臭い!マンションがあるようなのです。
こういう点で、私は言われるまで全く気が付かないことがありました。仮に、そういうところでずっと生活をすることになれば、健康上も良くないはずです。鼻の病気が、さらに悪い環境を引き寄せて、健康に悪影響を与えてしまうように思います。仮に、一人暮らしであれば、そういった臭いに気付かないまま、職場の人に迷惑をかけてしまうことも想定できます。
単に副鼻腔炎(蓄膿症)、昔はそんな人は沢山いたでしょ!という感覚でいると本当に危ないことになったり、周囲にさらに迷惑をかけてしまうことにもつながってしまうかもしれません。そういうところまでも見通して「大したことないよ!」と言っている人はおそらくいないはずです。
自分のその時の気持ちのようなものを単に言葉に出しているだけであって、副鼻腔炎(蓄膿症)の子供を持つ保護者の方であれば、楽観的に考える一方で、しっかりと現実を見据えて色々な情報を得たり、色々なことを子供と認識共有したりすることが大切と思います。
なぜなら、もしそれがなければ、その子供だけがその現実の狭間を見せつけられることになるからです。そして、一人でぶち当たるその苦しみや辛さは修行僧のストイックさを遥かに超える場合もあると思います。そのような現実を全く把握せずに育ててしまうと、親子間でも大きな溝が生じてしまう可能性があります。
そういったことの背景にはやはり、自分の経験したことは想像することが困難だということがあります。誰でも難しいはずです。自分が経験したことのない苦しみなんか想像したくもないし、想像できないはずです。だから、もし自分のお子さんが副鼻腔炎(蓄膿症)で、どんな苦しさなのか想像するとすれば自分がひどい風邪を引いて、鼻の奥が腫れて鼻づまりになり、鼻呼吸が出来ずに口呼吸の状態、
頭もボーっとして、少し痛い、そういう状態を想像すると分かりやすいと思います。その状態でまず勉強!とか言っている保護者の方がいれば、ちょっと!という感じに私は思います。このようになってしまう背景としては、それでも元気に走り回っているようなことがあると思います。元気であれば、それはそれで良いと思います。
ですが、元気すぎることによって本質が見えてくる場合があると思います。何か逃れるようにして常に動き回っているのであれば、そして度々問題を起こしてしまう程のものであれば、その元気には健康的なものとは少し違ったものが入っているかもしれないという視点、見識を持つ大人もいた方が良いと私は思いますが、これは本当に難しい事でもあると思います。ここまでを保護者の方に求めるのは本当に大変なことなのかもしれません。ですから、せめて幅広い価値観、副鼻腔炎(蓄膿症)の子供を包む世界について大らかな視点を持っておくことを考える機会もあった方がいいように思います。
今も日本のどこかで日常の生活環境の臭いにあまり気が付かないまま生活している人や、気が付いているものの、臭いに鈍感になっているために重大に捉えないまま生活している人はかなりの数いると思います。このようなものだけでも社会的には、不利な状況に追い込まれるはずです。子供のときにプールで起きたような問題が大人になって別の形で出現するようなことは色々なところであるはずです。
子供の頃にプールで嫌がられていたような問題と向き合わない生活を続けていると、大人になったときに自分の身体を蝕む環境を引き寄せ続けてしまうことがあるのです。ですから、自分は他の子とは違う所があるということを早めに本人も分かっていた方がいいと思います。大人になってしまったら、もう誰も何も言わなくなってしまう環境へとさらに進んでしまうことが懸念されるのです。
つまり、それは見捨てられて、放置され、嫌がられ、劣悪な環境で短命になりやすいことを意味するとさえ思えてきます。なぜここまで強い表現をするかといえば、症状によっては、その問題から色々な問題が次々に出てくることを想定しておいて欲しいからです。だから、簡単に捉えてはいけないというのが手術までした私の正直な思いです。